2023-05-25

2限と5限の間が暇だったので「菊坂ホテル」という上村一夫の漫画を探しに神保町に行った。

竹久夢二美術館で興味を持った菊富士ホテルの逸話を本で読んだりしていくうちに、さらに大学1年の時いろいろお世話になった阿久悠氏の"悪友"の上村一夫氏がその菊富士ホテルを漫画にしていることを知って40年前の本が無性に欲しくなってしまった。

メルカリで何冊か売ってたはいたけどせっかくなら本を探して東京をさまよってみようと思った。

そういえば元々お母さんの実家に飾ってあった「雪の夜の伝説」という絵画に惹かれていて、受験生の時に解いてた現代文の問題に竹久夢二の評論があって、たしかそこであの絵画の作者が竹久夢二だということを知ったんだっけ。

そしてこの間の日曜日、本来は国立西洋美術館に行く予定だったけどお昼に思った以上に高いラーメンを食べてしまって、そのショックを抱えて不忍池をほっつき歩いているところでたまたま竹久夢二美術館を通りかかった。

前を走る自転車に乗ったガキがそこで急にブレーキをかけなかったら素通りしていたけど、わざわざ自転車を止めて美術館を真剣な表情で見つめるガキにはるか昔の感性を呼び起こされたので入ってみることにした。

子供のときにだけ訪れる不思議な出会い

それが好奇心であることをガキは思い出させてくれた。ガキは結局美術館の中には入って来なかった。僕の1週間を夢二に染めてくれる小トトロだったのかもしれない。

そこで夢二の絵をいくつも見ていくうちに、絵そのものに夢二の生きた時代とそこで夢二が歩んできた道程を感じ取れる事に気づいて、同時にそれがあの「雪の夜の伝説」に幼い頃から感じてきた魅力の正体であることに気づいた。

夢二が恋多き生涯で結婚した3人の女性のうち、最も愛した女性として知られる彦乃。夢二との結婚後、彦乃は結核を発病してしまう。彼女の父は厳格で、入院した彼女に夢二が面会することを1度も許さなかったらしい。

夢二は彼女が入院した順天堂病院のすぐ近くの菊富士ホテルで彼女の面影を追い続けていた。大正時代は恋を阻む障壁が今よりもずっと大きくて、だからこそ当時の人々は激しくて儚い恋をしてその事実が名文や名画として今も輝いているのでは無いかと思う。竹久夢二の繊細な女性像はまさにその象徴。僕は文士が小説や絵画を書いた場所としてではなく、作家のリアルを遺した場所としての菊富士ホテルに興味を持った。

その流れで今日「菊坂ホテル」を探している。

まずはじめに行った夢野書店は前は置いてあったけど誰かが買ってしまったらしく、優しそうな店主さんは上村一夫日本画のようなタッチが唯一無二ゆえに人気で品薄であることを教えてくれた。その上村一夫に影響を与えたのも夢二だ。僕の隣にいた刺青の入ったいかつめの外国人は、神保町の漫画専門古書店でいったい何を探していたのだろう。彼の好奇心も立派なものだと思う。

続いて訪れたかんけ書店はこじんまりとしたオフィスビルの2階の狭い一室を無理矢理書店にしたような場所で、店主の他には誰もいない。入口付近に構える店主に挨拶したが無視された。この狭さでたった2人でシカトされることほどしんどいものはない。恥ずかしくなったのであるかどうか一言だけ聞き、ナイナイ、ナイデスと簡潔に言われたので足早に去る。

続いていちばんありそうだと踏んでいた澤口書店に向かうも、シャッターに臨時休業日の張り紙が貼られていた。

仕方なく神保町を諦め、ここで大学に戻ってメディア室で映画でも見ようかと思ったけど、まだ夢二の引力は僕を飼い慣らしているみたいだ。

望み通りいいだろうと言わんばかりに中野に向かう。僕の庭になりつつある中野ブロードウェイには流石にあるだろうと思い、いつもどおり賑わう商店街を通り抜けていざ漫画の楽園まんだらけ中野店へ。上村一夫の見出し板を見つけて喜んだのも束の間、「菊坂ホテル」と書かれた背表紙は無かった。。

中野までの遠征費は大学生の財布事情には馬鹿にならない。コエカタマリンで具現化された文字のごとく"ガックシ"がの四文字が背中に降ってき

た。

ふだん書店アルバイトでさんざんやられている報復と言わんばかりに店員さんに探求を依頼したけど、結局店舗には無かった。だけど店員さんがご親切に"まんだらけ渋谷"にはたった一冊だけ在庫がついている事を教えてくれた。その一冊以外は東京のどこにもないらしい。

ここまで来たらもう引き返せない。

書店アルバイトで知った"お取り置き"というシステムを駆使して慎重にその一冊を確保し、東京でいちばん嫌いな渋谷に向かうことを決めた。そもそも汚くて治安が悪い場所だけど、それ以上にあそこにはいい思い出がない。はじめてのバイトをした渋谷のセンター街のしゃぶしゃぶ屋もハードすぎて3日で辞めた。東京ではじめて女の子とデートした場所も渋谷だけど、∞ホールでお笑いを一緒に見て以来その女の子との関係もあそこで途切れた。

マップに導かれるままクソ汚い渋谷のセンター街を通り抜けて、ついに"まんだらけ渋谷"に到達。

しかし何故か店舗が見当たらない。看板をよく見ると"B2F まんだらけ"と書いてある。地下に続く急な階段を降りた先に待ち受けていたのは文字通りアンダーグラウンド。こういうお店をいくつも見てきたけど正直レベルが違う。手塚治虫石ノ森章太郎よりもつげ義春楳図かずおの方が上流階級とでも言わんばかりの空間に思わず笑ってしまう。落ち着かないので早急にカウンターに行くと、酔ってるのかシラフでそれなのか、気が狂ったような背広のおじさんが店主に向かってどうでもいい会話を延々と繰り広げている。こんなやばい場所にたった一冊の「菊坂ホテル」があったことがなにより面白い。やっと手に入れた菊坂ホテルの状態は想像よりもずっと綺麗だった。

そんなこんなで地上に出てようやく所望のものを手に入れた満足感に耽って歩いていると、急に視界に予想だにしない文字が飛び込んできた。

センター街の落書きされた街灯には"夢二通り"という文字が書かれていた。

この時点で同じ"夢二"ではあるが全く違う意味の言葉が使われた通りor夢二がかつて暮らした場所の二択が浮かんできたけど、かつては夢二の居住地だった場所がこんなに汚い場所になってしまっている現実から目を背けたく前者だと自己完結させながら、それでも僕の足は他に竹久夢二という文字が刻まれている場所があるかもしれない好奇心に支配されるまま動いていた。

そしてついに、∞ホールのすぐそばの空間に僕は竹久夢二の足跡を見つけた。

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"竹久夢二居住地跡"とJリーグ30周年のポスターが貼られた壁に、不法に置かれた自転車が挟まっている。

あとで調べたところ、1921年から1925年の間、ここ渋谷の宇田川町で暮らしていたという。それはまさに夢二が最愛の彦乃を失った1920年の翌年からの5年間である。

繁華街のど真ん中、石碑が立っているそこに大正時代の繊細さと華美さは微塵も残っていない。

ただ、夢二が生きた証はたしかにそこにあって、それが好奇心のまま過ごした僕の1週間の産物として僕に降ってきた。

僕はそこで目を背きたくなる時代の変遷を理解した。

学校に戻っていつもどおり5限を受けた後、1年のときのとある授業でかわりにレポートを書いてあげた卓球推薦のくぼくんとラーメン二郎に行った。彼は高校まで勉強に必死で向き合い続けた明治大学生に特有の狡猾さを感じないから好きだ。

僕が彼のレポートを書いたことに対する精算がまだ済んでないと思っていて、ラーメン二郎を奢るという彼なりのやり方で半年経った今日精算してくれたみたい。

ラーメン屋に向かう途中、「今日一日なにしてたの?」と彼が聞いてきた。

思えばこの長い経験をしたあとに彼とラーメンを食べるのってちょっと不思議な気分だ。

「適当に東京を歩いてた」

竹久夢二美術館に行く前に食べたラーメンと同じ味がした。帰ったら「菊坂ホテル」を読もう。