2023-07-03

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みなさんこんにちは。夢見てますか!

今回はエノケンの滑稽学というプレゼンをしようと思います。

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このプレゼンを聞けば、エノケンが一体何者かが分かります。"エンケン"こと遠藤憲一さんとは全く関係ありません。実は日本人は、喜怒哀楽の""を、すべて"ケン"という名を持った偉大な芸能人に学ぶことができます。喜の魂は、今回のエノケン、怒の魂は、サムライ渡辺謙、哀の魂は、職人高倉健、そして楽の魂は、マツケンです。マツケンサンバです。志村けんがいないじゃないかと思われたかもしれませんが、僕たちにお笑いを教えてくれた志村けんが、お笑いを目指した原点には、喜劇を日本に広めたもう一人のケンがいたんですね。そんな、エノケンこと榎本健一の生涯を辿っていきます。

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そして、エノケンの功績が分かります。エノケンが生涯をかけた"喜劇"は、今の日本が失いつつある要素かもしれません。喜劇とはなにかを、当時の時代背景と照らし合わせながら深堀りしていこうと思います。

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そして、となりのトトロ百倍面白くなります。一件関係ないと思われがちですが、エノケンとトトロは実は非常に近い部分で面白さを共有しています。もっといえばエノケンの人物像を知ることで、昔の日本映画が評価されている理由が分かります。ではまず、そもそも喜劇とはなにかについて触れていきたいと思います。

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「筋立や登場人物が滑稽で、諷刺に満ち、観客を楽しませて笑いを誘う劇。時に表面は愉快で実は深刻なものもある。」

これが広辞苑に乗っている喜劇の意味です。喜劇を調べると広辞苑に限らずどの辞書にも必ず、「滑稽」というワードが入ってくるんですよね。そして、その「滑稽」を真っ先に映画に取り入れた偉大な人物が、

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5.三代喜劇王チャールズ・チャップリンバスター・キートン、そしてハロルド・ロイドです。

コメディといってもいろんな種類がありますが、今回は"スラップスティック・コメディ"です。三人が活躍していた時代の映画はサイレントだったので、スラップスティック、つまり鞭で叩かれるみたいに体を張って、ドタバタ音が伝わってくるようなコメディ様式が流行ってました。尻もちついたり落っこちたりと他のどんなコメディよりも滑稽がマシマシです。これは元々アメリカで盛んだったヴォードヴィルっていう寄席演芸が発祥です。ちなみにチャップリンの「街の灯」っていう映画は是非見てみてください。この映画には映画のすべてが詰まってます。f:id:kzombie:20230704095359j:image

そんなスラップスティックコメディをエノケンが映画に持ち込むまでの歴史を辿っていきましょうか。あ、ちなみにエノケンは映画でも活躍しましたが、どちらかといえば本業は舞台役者です。1904年10月11日、エノケンは東京の青山で生まれ、幼少に母を亡くしたため厳格な父のもとで育ちます。小さい頃から剽軽者だったようで、父に怒られたときのエピソードがたくさん自伝に載ってました。1920年代前半に移り、エノケンはついに舞台に立ちます。この頃の日本は第一次世界大戦の影響で絶賛好景気中でした。そんな、日本がキラキラしていた時代の象徴が浅草オペラです。エノケンは岸田辰彌、石井漠、藤原義江も活躍した浅草オペラでいわば期待の新人として注目の的でした。この頃からエノケンの代名詞ともいえる、アドリブが人気でした。しかし浅草オペラは文字通り崩壊します。1923年9月1日、関東大震災が希望で満ちた浅草をたった一日で焼け野原にしてしまいます。浅草オペラもこのまま、復活することはありませんでした。

それでも当時の人たちは今よりもずっと逞しかったんです。僅か数年ですぐに活気を取り戻し、1930年代に浅草オペラに代わって新たなムーブメントが巻き起こります。

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7.1930年代、東京の若者の間でエロ・グロ・ナンセンスというワードが大流行しました。その名の通り、エロはエロティック、グロは怪奇、ナンセンスはばかばかしいという意味です。どれもアングラっぽい香りがしますね。こういう文化はたいてい、憂鬱な世の中を吹き飛ばすカウンターカルチャーとして流行るのでめちゃくちゃパワーがあります。文ストでおなじみ江戸川乱歩夢野久作の小説だったり、阿部サダヲの芸名の由来となった阿部定事件っていう強烈な猟奇事件に当時の若者は夢中だったらしいです。その正体は禁止スレスレのワクワク感。あの修学旅行の夜みたいな感覚が日本中を包んだ訳です。当然、その中心は浅草で、浅草の中心でエノケンは「カジノ・フォーリー」を旗揚げし、それが大人気でした。エノケンの笑いの源泉には、そういった風刺の要素もあるという事です。このへんの文化も面白いので、興味があったら川端康成の「浅草紅団」っていう小説を読んでみてください。

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勢いに乗っているエノケンに、生涯最大のライバルが現れます。それが古川ロッパです。丸い眼鏡に丸い顔でなんかワクワクさんみたいな見た目してますけど、ただもんじゃないです。エノケンが、身体に痣とかめっちゃ出来そうなスラップスティックで勝負している間に、ロッパは得意の声帯模写でいとも簡単に笑いとっていくんですね。ポケモンでいうと物理のエノケン特殊のロッパみたいな感じですね。それにロッパは華族出身で頭もいいので上品な笑いをとれる人なんです。現代でいう中田敦彦さんみたいなポジションでしょうか。違うか。そんな感じなのでロッパはプライドが高くて大変だったみたいです。2人は性格も笑いのとり方も真逆なので、酒が入ったときに取っ組み合いになったこともあるとエノケンは自伝で語っています。これもうまんま悟空とベジータの関係性ですね。ちなみに素人時代のロッパの才能を拾った人物は宝塚の創始者である小林一三です。そうしてロッパと切磋琢磨してるうちに実力を上げ、活躍の中でエノケン一座なる仲間も手に入れて、いよいよ!エノケンは浅草を飛び出して、映画界に突入するわけです。これは日本映画界のターニングポイントでもありました。現代では当たり前のように僕たちが受け入れている、日本の"お笑い"文化がここから始まっていきます。

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THE FIRST ENOKEN。(ダサい感じを出す)エノケン映画の大半は山本嘉次郎監督でした。ヤマカジはエノケンの理解者で、エノケンの身体能力や顔芸といった長所を生かした作風で映画は大ヒットしました。でも、せっかく色んな人に見てもらえる映画に出演したのに、エノケンがどういう役を演じたかというと、やっぱり、滑稽なキャラクターなんですね。小柄なのにお相撲さんを演じたり、泥棒になったり、西遊記の方の孫悟空に扮したり。エノケンは滑稽な自分を愛していたんでしょうか。エノケン孫悟空は特撮技術がすごくて、僕の地元のすげえ人代表、ウルトラマンゴジラでおなじみ円谷英二さんが特撮を担当してる作品ですね。まぁ他にもいろいろYouTube著作権切れたやつがupされてると思うので時間があれば是非。ただめっちゃ画質悪いです。f:id:kzombie:20230704095923j:image

でもエノケンの真骨頂が見れるのはやっぱ黒澤明「虎の尾を踏む男達」だと思います。

黒澤明って難しいって敬遠されがちですけど全くそんな事無くて、めっちゃファンタジーだしやってることほぼアニメです。キャラに魂が宿ってます。なんで正直今のアニメよりもアニメらしいです。それでいて映像はめちゃくちゃリアルで、あの時代にどうしてあんな映像が撮れたのかまったく分かりません。僕は黒澤明のこと、てっきりカッコよく映画を撮る人だと思ってたんですけど、全然エンタメ映画で、豪快に笑ったりすっ転んだり(トトロを見たときのメイちゃんみたいに力説)滑稽なんですよ。ただそういう人間味のあるキャラが真剣になる瞬間がそれはもうカッコよくて、そこが黒澤明の凄さだと思ってます。そういう人だからエノケンの真骨頂も当然引き出せちゃうわけですね。というわけで、ちょっとだけ見ましょう!

 

歌舞伎の勧進帳が元ネタで、義経と弁慶の一行が関所を超えるっていう流れは一緒なんですけど、そこになぜか案内人としてエノケンが登場します。どうですかこの笑い方。

 

あと市川左團次が歌舞伎の見得をお友達のロシア人に教えて、エイゼンシュティンって言うんですけど、え、見得って映画のクローズアップやんけ!って言わせたというエピソードがあるんですけど、この作品ではそのクローズアップが大河内傳次郎さん演じる弁慶が勧進帳を読み終わる瞬間に使われてます。めちゃくちゃカッコイイです。

 

あとラストシーンでなぜか弁慶じゃなくてエノケンが飛び六胞で去ってくんですけど、それをエノケンにレクチャーしたのも市川左團次です。どういう飛び六胞かは今回はお見せしません。この作品は本来1945年公開予定だったんです。

 

年号で察してくれたと思うんですけど日本が太平洋戦争で負けた年で、GHQの検閲が入って、公開が7年延期になっちゃいました。つまりGHQの監視下で撮ってた訳です。アメリカの軍人とキャストの仲良しオフショットがDVDに挟まってたんですけど、当時のアメリカ人が、戦争で負けたときにあえて日本の伝統を撮った黒澤明と、愉快な俳優陣をみて何を思ったのか気になりました。日本強えって思ったんじゃないかな。

あとその当時は戦争のせいで機材もなくて、カメラを全然動かせなかったんです。あまりカメラを動かさないでどうやって画を持たせたかというと、サイレント映画と同じ、表情と動きです。表情と動きには制約を打開する力がある。そういう意味でこの映画で滑稽に映ってるエノケンが実はヒーローでもあるんですね。

このように日本が一瞬日本のものじゃなくなる時代があって、そこにある種の、演劇人の海外交流があったんじゃないかと僕は思います。

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ここで仮説です。「滑稽」は喜劇のみならず映画の面白さを左右する大切な要素である。今度は滑稽の演者ではなく、滑稽の脚本に着目して、脚本における滑稽の活躍をお伝えします。

 

実はこの「滑稽」を上手く使いこなせる監督はみんな賞をとってます。「ビッグ・リボウスキ」のコーエンは滑稽の扱いが世界一上手い監督だと思います。僕が言ったら面白くなくなっちゃうんで内容は控えますけど、僕は去年これ見て笑いすぎてぜんそくが再発しました。ただ滑稽なのがいいという訳でもなく、例えば滑稽をフリに使ってラストシーンで哀愁を漂わせるタランティーノは映画体験として最高です。滑稽と哀愁(伏線)の緩急は余韻を生みます。北野武さんの映画も暴力を真っ直ぐ描くんじゃなくて滑稽でサンドイッチにすることでよりグロテスクが際立ってます。(女性は興味無いだろう。このあとのトトロ)日本の脚本家だとクドカンが最高ですね。なんといってもキャスティングが完璧です。ちなみに滑稽とギャグは別物っていう部分で、福田雄一さんの脚本も好きだけど滑稽ではないかなと思います。(否定にならない口調)滑稽は人間性です。真面目から生まれる笑いです。ハロルド・ロイド(言えない)が時計にしがみつくのも、真面目にしがみつくから笑いになるんですね。だからふざけちゃったりして、笑わせるベクトルがこっちに向いちゃうとそれは滑稽ではないんですね。実は!うちの大学内にも滑稽を使いこなしてしまう、いい脚本家がいます。しかもその演劇が無料で見れてしまうなんてそんな素晴らしいことがあるらしいです。ぜひ寺腰玄くんが脚本した演劇を、今回のプレゼンを聞いた上で見てみて欲しいです。あれはすごいです。

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では、いよいよ仮説を裏付ける根拠として、脚本と演者が一体となった"アニメーション"を利用していきます。映画や演劇とは違って、描くじゃないですか。だからアニメーターは魂を吹き込む脚本家でもあり、同時に演者でもあるんです。そういう意味で、アニメのない時代に魂を描いていた黒澤明はめちゃくちゃ凄いんです。本来アニメーションの語源は、ラテン語で「霊魂」を意味するanimaが由来です。つまり、生命のないものに生命を吹き込む作業がアニメーションなんです。生物・無生物を問わず森羅万象に魂を宿してしまう考えのことをアニミズムといいます。日本はこのアニミズム縄文時代から脈々と受け継がれているため、アニメ強豪国になる下地が整ってるんです。あと、人間界より遥か上の存在の西洋の神様と違って、アニミズム神様と人間が近い場所で同じように暮らしているところに特徴があります。というわけで今回は自分で過去に書いた「アニメーションの滑稽学」の一部を引用して説明していきます(笑)

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僕は滑稽を今の日本で最も伝えているのは、スタジオジブリだと思います。1988年公開の「となりのトトロ」、見たことがないって人いますか?もしない人いたらかまいたちのボケになれますよ。ご存知だと思いますが、田舎のお化け屋敷みたいな家にやってきた小学生のサツキとメイが大自然の中で不思議な生き物に出会っていくというお話です。そう考えると、もろアニミズムですよね。トトロはお昼寝してるし、まっくろくろすけは家に住んでるし、しまいにはネコがバスになっちゃってますからね。神様と人間が近い場所で暮らしているアニミズムに近い世界観ですよね。そう考えると、アニミズムって滑稽なんですね。で、その生き物たちを見ることが出来るのはサツキとメイの2人だけです。お父さんはお化けの存在を2人に教えたけど見えてはいません。じゃあなぜ2人だけがトトロに会えたかというと、その正体は幼い頃特有のアニミズム的な感性なんですよね。だから、ぶっちゃけトトロはいないしまっくろくろすけも明るい所から急に暗い所に出たときの目の錯覚でしかないんです。メイちゃんがとった!のもただのスス汚れだと思います。でも子供の頃は多くの人がトトロに会えると思っていたと思います。子供の頃はいると信じてたけど、大人になって見るとトトロやっぱいないじゃんって思わせるのが仕掛けなんですね。ただ、宮崎駿監督はこの作品に大人へのメッセージを隠してます。それは、「夢だけど夢じゃなかった!」っていう台詞です。それまでサツキとメイはいろんな不思議な出来事を楽しんでいるんだけど、この台詞だけ、どっか諦めが入ってると思いませんか?念のためこの台詞までの流れをおさらいすると、メイが庭にどんぐりを埋めて、それがなかなか出てこない。それで悲しんでるところにある夜トトロがやってきてサツキとメイと一緒におまじないを唱えるんですね。するとでっかい木がもぞもぞもぞ(ジェスチャ)って生えてくるんですよ。でも、次の朝起きてみると、その木はもうなくて、かわりに小さな芽が生えてるんですよね。それで言うんですよ。「夢だけど、夢じゃなかった!」って。これ、まんま昔から日本で受け継がれてきた豊穣の祈りのメタファーなんですよ。昔の日本人が不作の不安を紛らわすためにみんなで団結して壮大なお祈りをして、壮大なお祈りの対価としては小さいかもしれないけど、それでも収穫できたことを感謝してきたメタファーです。実際このとき2人はお母さんが入院中っていう小学生からしたら相当不安になる出来事を経験してる最中です。となりのトトロは、そんな不安を2人の幼い感性が救ってくれるお話なんですよ。ただあくまで感性でしかないので、結局あの映画の中のリアルはお母さんの病気と、小さな芽が生えたことだけなんです。だからある意味滑稽で、結構悲しいお話なんです。というように、滑稽と哀愁は実は表裏一体なんですね。これは"表面は愉快でも実は深刻なもの"という喜劇の本質をついてます。宮崎駿は、昔の日本人がしたように、先行き不安だらけの現実の中で、夢は夢でしかないし、トトロなんて本当はいないんだけど、それを信じてみることで、小さな幸せに気づけるっていうことを言いたかった訳です。そして、「となりのトトロ」っていう夢から醒めたとき、小さなお土産を持ち帰れば、憂鬱な日々を乗り越える勇気につながるということを伝えたかったのではないでしょうか。これは千と千尋のラストシーンの髪飾りの描写にも共通してますね。今の時代、サブスクによって映画の特別感が無くなってしまい、みんな映画を見ても、"持ち帰る"ということをしません。目に見えるシナリオの部分だけを見て満足して、現実はこんなんじゃないってフィクションを突き放します。でもフィクションに滑稽があるうちは、夢だけど夢じゃないんです。

 

アニミズム的な話をもうひとつすると、トトロに変な都市伝説があるのは、トトロの世界観にどこか怖さみたいなものを感じた人がいたからかもしれません。壮大な自然のなかで迷子になっちゃう小さい子のお話なので、自然は生きていて、時には恐ろしい存在でもあるってことを描いているようにも感じます。これも実はアニミズム的な考え方ですね。トトロの存在は、自然の魂と人間の魂の架け橋みたいな捉え方もできます。

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そして今回最も伝えたかったのは、となりのトトロ以外のジブリにも共通する、宮崎駿監督の滑稽の描写です。まずは表情について。ジブリの魅力はなんといってもキャラクターの表情です。分かりやすいとこだと、まっくろくろすけを召喚するシーンとか顎外れるくらい大きい口で叫ぶじゃないですか。あとは風呂場でお父さんがお化けが怖いメイちゃんを励ますために笑いますよね。ワッハッハッハッって。人間だけじゃなくてトトロも大きい口を開けてトォォトォォロォォォって。となりのチュチュルじゃだめなんですよ。ラーメンすすってる人になっちゃうんで。是非ジブリを見るときはキャラクターの表情にフォーカスして見てみてください。逆にネコバスが来る1個前のバスから降りてくる乗客の表情とか、カオナシと一緒に電車に乗るシーンの乗客がどういう描かれ方をしてるかに注目してみても面白いかと思います。今のアニメは目が大きくて、目に表情が集約されがちなんですけど、ジブリはもう顔全体ですね。むしろ鼻と口。今回のためにトトロの絵コンテ買ったんですけど、ちゃんと、メイ、鼻を膨らませる、とかトトロ、大口開けるとか書いてあるんですよね。夢を見てるから、サツキとメイは滑稽な表情になれるんです。

 

余談ですけどディズニー映画も表情の描き方をすごく工夫してる気がします。例えばアナと雪の女王、僕はアナ雪は声優さん含めて大好きだったんですけど、面白いのが、一時停止ボタンを押すと、キャラクターが絶対変顔してるんですよね。これはCGアニメーションのなかでいかにキャラクターの人間性を保たせるかという部分で、相当試行錯誤してるのが伝わってきます。ピクサーに関してはおもちゃとか1つ目のバケモンですら表情豊かに思えますけど、それって冷静に考えたらめちゃくちゃ凄いですよね。

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もうひとつはアクションです。走っててドアをちょっと通り過ぎちゃって急ブレーキして引き返してきたりとか、なにかにぶつかって尻もちをついたり、そういうアクションがどの作品にも必ず入ってきます。まさに喜劇における、スラップスティックですよね。でもそういうアクションって果たしてコメディ作品以外に必要だと思いますか?別に冒険活劇とかには要らない要素だと思いませんか?最近見たやつだとカリオストロの城で、カゲっていう恐ろしい暗殺集団がいるんですけど、五ェ門がカゲのマスクをシャキーンって斬ると中身がマヌケ顔のオッサンっていうシーンがあるんですよ。いやいや、怖い敵は怖いままでいいじゃないですか。以前までなんでそういうことしちゃうのかなあと思ってました。ただそこが宮崎駿の優れたバランス感覚なんですよね。

なぜそういう描写を入れるかというと、それが"人生"だからです。そういう描写が抜かりなく入るから、ジブリは面白いんです。ジブリは敵も味方も生物も無生物も一生懸命生きてるんですよ。生きるのに夢中になったとき、人は必ず滑稽になります。チャールズ・チャップリン「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。」という名言を残してます。つまり、映画で「滑稽」を俯瞰で見ているとき、それは人生を見ていることになるんですね。その映画が描く滑稽に自分の人生を重ねると、人は悲劇を忘れられるんです。それを喜劇人たちは身体をはって、ドタバタ劇で伝えてきたわけです。7月14日公開のスタジオジブリ作品、82歳の宮崎駿監督による「君たちはどう生きるか」に、滑稽はあるのか。それとも令和に適応してなくなってしまうのか。是非注目してみてください。

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最後に、晩年のエノケンがどんな喜劇人生を歩んだのかをお伝えします。エノケンは40代になっても映画と舞台の両面で活躍します。喜劇役者として全国各地を飛び回り、映画もやっていました。1947年に、ついにあの古川ロッパと東京有楽座で共演して観客超満員。この頃"エノケソ"っていうパチモンが全国各地に出没したことからその人気ぶりが分かります。しかし、実はここが榎本健一の喜劇人生の最高潮でした。50年代から人気にちょっとずつ陰りが出てきて、さらにここから度重なる不幸に見舞われていきます。

1952年エノケン48歳のとき、身体を酷使しすぎたあまり、脱疽という、足の先端が壊死してしまう病気にかかり、右足の指を切断することが決まります。このころ丁度地方巡業中だったため、観客に気づかれないように痛みに耐えながら芝居をやっていました。足の痛みよりも人生をかけた喜劇を奪われる理不尽の方が辛かったエノケンは、巡業による多額の借金も相まってノイローゼになってしまい二回自殺未遂をします。そこから立ち直って、歩行訓練を重ねて舞台復帰しようとするときに、喜劇人エノケンではなく、父としての榎本健一を愛してくれた息子を肺炎で失います。このへんのことが自伝に詳しく書いてあるんですけど読むのが大変でした。僕は喜劇人って悲しさと最も隣合せな職業だと思います。そもそも喜劇人になるには大きな代償を払わなければならないんです。普通の役者はまだ素が入る余地があるけど、喜劇はファンタジーなので、喜劇人は、素の自分を否定するという悲しさを、喜劇人になったその日から一生背負っていかないといけないんです。今の芸人さんも、愉快な人とか芸達者な人ほど、パッと素にもどったときに、よく言えば優しい目、悪く言えば、何かに怯えるような、悲しい目をしていることがあります。なので、そうやって瀬戸際戦ってる芸人を僕はすごいと思ってます。

1960年、エノケンテアトロン賞、紫綬褒章NHK放送文化賞を一気に受賞します。

62年になると、エノケンと並ぶ2大巨頭だった古川ロッパはすっかり人気を失い、暴飲暴食に走り、糖尿病によって亡くなります。たくさんの人を笑顔にしたロッパも落ちぶれてしまい、死去のニュースはほとんど報じられませんでした。同年、エノケンは脱疽が再発し、今度は右足の太ももから下の切断を余儀なくされます。この手術の直後、病床にいるエノケンアメリカから海を亘ってある人物がお見舞いしにきます。

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その人物こそ、三大喜劇王ハロルド・ロイドです。喜劇のレジェンドからの思わぬサプライズに泣いてしまったエノケンに、ロイドは右手をそっと差し出します。その右手には指が2本ないんですよ。実はロイドも20年に撮影中の事故で指を失っています。そして、エノケンにこういいます。

 

「ハリウッドには義足で頑張っている人もいます。次に会いに来たときに、あなたが再び舞台や映画で活躍していることを確信してます。」

その言葉に勇気を貰ったエノケンは、義足をはいて、その後もいろんな苦難がありましたが、テレビに場所を移したり、役者の育成をしたり、1970年、65歳で肝硬変で亡くなるまで、一度も止まることなく表舞台に立ち続けました。

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エノケンの死から50年以上経って、日本の文化は大きく変わったと思います。特にコロナ禍によって日本の文化は相当魔改造されました。マスクによって相手の表情を見る機会が減ったり、都合のいい部分しか切り取らないSNSに慣れてしまった人達が、都合の悪いことがあったら総叩きするので、今の時代、"滑稽"は避けられる対象なんですね。だから、ここ数年のエンタメは嫌いじゃないですが、元気がないなと思います。今年のアニメの代表格はちいかわと推しの子ですよね。ちいかわって可愛いですか?あの顔なんかムカつきませんか?少なくともアザトカワイイとかそういうノリですよねなんか裏設定あるみたいですけど。推しの子は令和のエンタメとしては最強だけど今回は批判させてほしいっす。あの作品はトトロみたいにファンタジーだし結構エログロナンセンスなノリなんですけど、そこに夢がないんですよ。芸能界の闇とか、スキャンダルとか、SNSの怖さとか、そういう内容なんですね。僕本屋の店員なんですけど、結構小学校低学年くらいの子が親子で推しの子買ってくんですよ。でもあれは本来子供の手が届かないアングラであるべきです。子供のうちは世間体の怖さじゃなくて自然の怖さを知るべきなんですよね。そもそも作品自体が滑稽さを排除して、いいとこしか切り抜いてないから、あれ自体がSNSみたいなもんです。周りの人たちが推してるからとりあえず推しとこになっちゃう。作品自体に夢がないから、フィクションはフィクションだから現実と一緒にするなって夢のないことを言い出す人が出てくるんですよ。そりゃフィクションはフィクションで当たり前だけど、みんながフィクションからなにも持ち帰らくなっちゃうとなるとそれはもうフィクションの存在価値がなくなっちゃうと思います。ドラマも元気ハツラツな作品が減ってしまって、女優さんの顔ぶれ見ても愛嬌の人が減ってしまったし、CMとかバラエティ見てるとそういうタイプまだまだいますけど、ドラマでは根暗になっちゃったり。JPOPも全体的に歌が上手くなったけど表現力がなくなっちゃった。歌詞も完璧主義です。女性アイドルも完璧な清楚か完璧な変化球の両極端が好まれて、その人の愛嬌が評価されない。だから80年代のキョンキョンとか薬師丸ひろ子さんにくらべると元気がない。男性アイドルもカッコイイけど長瀬智也さんみたいにすっぴんの生き様が画になる人もいないし、中居正広さんみたいに滑稽になれる人がいないんです。そうやって、令和になって、日本のエンタメから滑稽さは排除されようとしてるんです。これはいい部分しか切り取らないSNSがもたらした負のスパイラルです。そんな中居正広さんはWBCの決勝の9回裏で大谷翔平のことを、「泥だらけのストッパー」って言ったんですよ。中居正広さんは日本で最初で最後の喜劇アイドルだと思ってます。一番前に立って平成を元気にしてきた中居くんだから言えるんです。そこに日本のみんなは共感できた。スポーツは嘘をつかないんです。僕はW杯とWBCを見て、日本はまだ大丈夫だって確信しました。コロナとSNSに毒された日本人でも、まだ、傷だらけ、泥だらけの人たちに熱狂できたんです。そして、お笑いも嘘をつきません。漫才の頂点を決める大会、m1を例に。実はここ数年のm1は、完璧な芸で史上最高得点を叩き出したミルクボーイをのぞいて、いちばん滑稽になれた人、もしくはいちばんバカになれた人が優勝してます。本気で笑わせるんじゃなくて、本気で笑われることができる人が優勝してます。錦鯉が優勝したとき、僕がちょっと病んでた時期だったんですけど、お笑いにはまだ夢があることを教わりました。R-1には夢がないって言ったウエストランドも、イケメンじゃない人がそれを言うから面白いんです。むしろ、井口さんに悪口を言っても人が傷つかないくらいのみすぼらしさがあって、はじめて成り立つんですよ。っていうことを僕が言うと感じ悪いじゃないですか。そういうことです。そして!ここ数年のm1に滑稽の笑いを持ち込んできたすごいコンビがいます。どのコンビだと思いますか?背の高いツッコミ上手が、縦横無尽に動き回る芸達者のボケをうまく料理する芸風。それまで話芸が中心だった漫才にスラップスティックを取り入れて、m1の雰囲気をがらりと変えてしまったコンビ、それが、

 

m12018優勝の霜降り明星です。あのとき、ネタの終盤で凄いことが起こってて、なんと粗品がツッコミを入れる前にせいやの動きだけでお客さんが笑っちゃってるんですよ。霜降り明星の心臓って粗品に見えて実はせいやなんですよ。粗品は器用だからせいやだけには勝てないって理解してますよね。すごいコンビだと思います。令和のエノケンはいます。霜降り明星せいやです。

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まとめです。滑稽は人生であり、いい映画は人生を遠くから俯瞰で描きます。それに自分の人生を重ねると、人は悲劇を忘れられる。今のハリウッド映画は"多様性"がテーマです。ただ、その描き方が下手くそなんですね。そこにこだわるあまり、人間の魂がないんです。という感じでいよいよ海外映画も滑稽じゃなくなってきました。そんな時代だからこそ、日本映画が主人公になる可能性が大いにあります。元々日本は人間以外にも魂を宿しちゃう多様性の国なんです。その滑稽を多くの日本人が思い出せば、日本は再び映画大国になります。

そして、滑稽は、映画だけではなく、時代そのものを良いものにします。自分の滑稽さを認めた上で、他人の滑稽さを受容することで、人生が喜劇になります。現代失われかけている"滑稽"というのは、他人を傷つけず、笑顔にするものです。当時の喜劇人は、そのことを身体を張って伝えました。現在は科学は発達して足を失うことはないけど、かわりに、科学の発達による世知辛さが喜劇人の障害になっています。それでも喜劇の魂はまだ生きています。エノケンが喜劇人になって、ボロボロになっても伝えたかったことは、"人生"そのものだったんです。もっというと、"夢"のある"人生"そのものです。エノケンは夢を見てくれる当時の人のために全力で滑稽になりました。そこにはそうやって夢のある現実があったんです。今の人たちは、「夢だけど、夢じゃなかった!」って思えるでしょうか。滑稽を肯定できるでしょうか?その答えは、7月14日公開の、「君たちはどう生きるか?」の評価で分かります。僕の今回のプレゼンは、あくまでヒューマニズムっていうひとつの考えに基づいたものなので、一概に正しいとは言えません。ただ、もし僕の発表からなにか持ち帰ってくれたなら、そのお返しとして、「エノケン 私の青空」とYouTubeで調べてください。以上で僕の発表を終わります。