2023-10-26

日本文学史の授業で『草枕』にて夏目漱石が汽車

嫌いであることを訴えたという事実を教わった。

そのついでに教授が教えてくれたシヴェルブシュという学者の書いた『鉄道旅行の歴史』という本

を昨日から面白いと思いながらと読み進めてる。

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産業革命蒸気機関車が登場して以後は、時間と

空間が抹殺されてしまったというお話。

馬車で移動していた頃は地形の起伏や馬の疲弊に

"自然"を享受しながら、その距離を五感で味わう

ことができた。

だが、蒸気機関は自然に抗うことができる人工の

動力であり、そこに乗せられた乗客は時間と空間

の長さを感じ取ることが出来ないのでは、という

意見がつらつらと書いてある。

夏目漱石はこの本が出版されるずっと以前に、

「汽車ほど個性を軽蔑したものはない。」と、

20世紀の文明を代表する乗り物を否定した。

ようは、鉄道に乗っている間、人間は荷物のよう

に"運搬される物体"に成り下がってしまうと言い

たい訳だ。

ちょっと分かる。

僕も満員電車のおしくらまんじゅうを形成してい

るのは人間ではないんじゃないか?と思ったりす

るし、5分おきにやってくる都会の電車なんかは

特に、移動距離に対してあまりにも苦労がないか

ら、どこか人間らしさとはかけ離れたような場所

に連れていかれるのではないかというような不安

を考えたことがある。

ただ、夏目漱石の時代にはまだなかった、映画と

いう俯瞰の芸術を僕は知っている。

鉄道はたしかに夏目漱石の言うように人間のパー

ソナリティをあまり感じさせない。

だけど、映画のラストシーンを鉄道で締めくくる

ことは、それまで繰り広げられてきた見事な人間

模様を何倍にも美しく脚色できる。

そう、僕がこれまで何度も美しいと言ってきた日

本邦画史上最高のラストシーン『悪魔の手毬唄

のプラットフォームでの別れ。

愛憎と後悔と、未練を置き去りにするように、

徐々にスピードを上げて、やがて風を切って去っ

ていく汽車の美しさ。

まさにこれこそが映画表現の極致である。

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美しすぎるから。