2023-07-13

イージー・ライダーを空きコマに見た。

ラストはビックリしたなぁ...。

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個人的に好きなのはこの台詞。

皮肉たっぷりなニコルソンの顔が最高。

この映画の構図は自由を求める若者vs閉鎖的な大

人だけど、SNSが普及した現代は若者すら閉鎖的

になってしまったような気がする。

気に食わん奴がいたら銃をぶっぱなすキ印は流石

に今の日本にはいないけど、言葉の銃をぶっぱな

す奴はいる。威力は母数でトントン。

殺人ワニよりも殺人アリの大群の方がゆっくりと

痛みを存分に味わいながら喰われてしまう。

その痛みは当人にしか計り知れない。

映画監督とか小説家みたいな俯瞰の天才じゃない

限り、規範への対抗心っちゅうのは行動で示すし

かないんだけど、それだと向こうは絶対分かって

くれない。

彼女はよく戦ったと思う。許してやってほしい。

まくとぅそーけー👏 なんくるないさー💐

 

そしてこの「イージー・ライダー」こそ、ピータ

ー・フォンダとデニス・ホッパーという俯瞰の天

才2人がタッグを組んでリアルで銃をぶっぱなす

クソ野郎たちをフィクションという銃で木っ端微

塵にして返り討ちにしてやったのだ。

胸糞映画?爽快映画の間違いだろ。

アメリカン・ニューシネマっていうのは腐敗した

社会に風穴を開ける見えない銃だ。

だからそのへんの銃よりもずっと威力がある。

 

主人公が2人なのがこの作品の肝。

ビリーとワイアットは自由のためにハンドルを握

る"戦友"。

一見そっけないようでどんな友情よりも強い

結ばれている。

その""の象徴がラストシーン。

直感タイプな自由戦士故に感情が常にモロバレな

ビリーに対して、そんなビリーが撃たれてしまう

その瞬間までワイアットの感情はあまり鮮明に描

かれていないような気がする。

そこに自由の"死"を際立たせるギミックがある。

もし主人公が1人だけだったらここまで人気にな

っていないだろう。

2人だと"運命を共にする"というニュアンスがそこ

に加わる。

そしてそれはこの2人のみならず、ヒッチハイカ

ーやハンセンといった、座席に座った自由を求め

る若者にも共通する。それどころかこの作品を映

画館の座席で見た当時の若者も共犯になれた。

イージー・ライダーは"自由"のためにバイクに乗

る自由戦士たちの、理不尽との戦いを描いた一種

の"戦争映画"なのではないかとすら思う。

 

ビリーが撃たれる前に農夫を挑発して中指を立て

る。このときは車に乗っているクソ野郎視点だ。

それまでこの映画を見てきてクソ野郎に感情移入

して「何だコノヤロウ!」って思う人間はまあい

ないだろう。

そして、ビリーが撃たれる。

ワイアットは血まみれのビリーに駆け寄る。

ここで大抵の映画はこのやり取りをワイアット視

点でワイアットに感情移入させるように映すんだ

けど、この映画は僕たちにロングショット、すな

わち神様の視点でそのやり取りを見せてくる。こ

れこそがラストシーンを最高の瞬間にする最高の

フリ。まさに究極のシンキングタイムである。

そして次の一瞬、この映画を見た僕たちはファイ

ナルアンサーを求められる。

ビリーを殺ったクソ野郎の車と、ビリーを殺られ

て怒りと哀しみでいっぱいのワイアットのバイク

が交わる、まさにその一瞬だ。

それは神様からすれば本当に微かな催しである。

ただ、自由を目指した男の正義と、自由を憎む大

人の意地汚さの交差。

この交差こそワイアットの人生の象徴であり、自

由を求める人間にとっての永遠なのだ。

そこでは2つの視点を交互に味わうことになる。

さっきまで神様だった僕は、クソ野郎になり、ワ

イアットになり、クソ野郎になり、ワイアットに

なる。

 

そのとき僕の心臓はどちらに共鳴しただろうか。

 

さっきまで神様だった僕はいつの間にかビリーと

いう戦友の死に悔しさと怒りを覚える。

そしていつの間にかバイクに乗っている。

銃は持っていないのに立ち向かう。

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冷静になると無謀な行動だけど、ここで一切疑い

がないのは僕はもうここでワイアットの心臓と共

鳴してしまっているから。

そして撃たれる。バイクが大破する。

死んだかどうかは意図的にぼかしてあるが、あの

様子じゃ恐らくワイアットは即死しただろう。

だけど自由が死んだとは思わない。

むしろクソ野郎の心臓はこの映画の終了と同時に

止まるが、ビリーとワイアットの自由の心臓は画

面を超えて継承されたのではないか。

彼らと同じ自由を求める人間の心臓に継承されて

百万の"戦友"を高揚させたのではないか。

この映画は自由の敗北を描いたのでは無い。

銃を持たせずに自由の勝利を描いた傑作だ。

この映画への賞賛の嵐こそが銃弾だ。

ビリーもワイアットも実は一発隠し持ってやがっ

た。

デニス・ホッパーはビリーを、ピーター・フォン

ダはビリーを身代わりに使ってアメリカの田舎に

蔓延っていた閉鎖的な風潮そのものを撃ち抜いた

のだ。

これぞ自由の国の愛国映画。

最高のメイドインアメリカ。

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