2023-06-04

f:id:kzombie:20230605173126j:imagef:id:kzombie:20230605173127j:image広島旅2日目。

いろいろ学べたし疲れた。疲れすぎて日記が書けないので文学賞でお世話になった内山先生に宛てたメールをコピペ。

花田植の様子はいつか相応しいタイミングで文に起こそうと思ってる。

 

Re: 7月5日(水)ライブの件(1ヶ月前)

 

ご報告ありがとうございます。僕は鈍重な性格なもので、まだ頂いた賞金も使っていませんし、作詞活動もあれ以来あまりやっていません(笑)。ただ、あの賞は自分がなにが好きか、自分には何があるのか分からないモラトリアムに苦しんでいた僕が文学や芸術を好きになるきっかけになりました。それからあの場では言えませんでしたが、僕の祖母はあの賞を頂いたとき病床で寝たきりでした。祖母は僕の弟と妹(双子なんです!)を生むために母が入院していた頃、まだ5歳だった僕をおんぶして病院からずっと離れたピアノ教室に連れてってくれた強い人でした。僕が賞を頂いたときはもう会話もできない状態でしたが、今回の受賞を本当に喜んでいたと母から聞きました。直接は会えなかったけれど、今の僕にできる最高の恩返しが出来た事を本当に嬉しく思います。頑固だけど不器用で繊細で寂しがり屋の祖父も少し元気になれたかな。もう少し続きます。この間本郷にある竹久夢二美術館に行って来ました。不忍池の散歩で本当は国立西洋美術館に行きたかったのですが、昼に値段と味がかけ離れたラーメンを食べてしまい、意気消沈しながら歩いていたところたまたま通りかかったので入ってみることにしました。実は僕の祖父母の家には竹久夢二の絵画が飾ってあって、その絵画に小さい頃から不思議な魅力を感じていました。そしてその魅力の正体に今回やっと気づきました。夢二の絵は絵画そのものから描いた人間がどういう時代をどのように生きたかがダイレクトに伝わってくるんです。こういう見方が出来るようになったのは明治大学文学賞に挑戦した最高の勲章だと思ってます。実際に、恋多き生涯を送った夢二には彦乃という最愛の女性がいました。しかし、彼女は1920年結核で亡くなってしまいます。入院中の彦乃にまた会えるように菊富士ホテルで祈り続けたそうですが、結局最期まで会うことは叶わなかったそうです。竹久夢二にとって絵を描く意味がその経験だったとしたら、その他にも名だたる文豪が数多く逗留した菊富士ホテルになにか大切なものがあったのかもしれないと思い、大学の図書館を使っていろいろ調べました。この時期もまた楽しかったです。いろいろ調べていくうちに、『菊坂ホテル』という漫画があることを知りました。この本の著者は阿久悠先生とも親交が深かった上村一夫先生です。繊細なタッチに竹久夢二っぽさを感じます。しかしその本は大学にはなかったので、空きコマを使って探し回ることにしました。一番ありそうな神保町の書店では既に売り切れていて、僕の庭である中野ブロードウェイにもなかったです。ただ、そこの店員さんに『東京だと渋谷のまんだらけに1冊だけある』と教えていただき、もうここまで来たら引き返せないと思い、僕が東京でいちばん嫌いな街、臭くて汚い渋谷に行くことにしました。落書き、ポイ捨て、耳をつんざくクラクションに嫌な気持ちになりながら歩いていると、そのお店はセンター街のど真ん中の地下にありました。文字通りアンダーグラウンド手塚治虫藤子・F・不二雄よりもつげ義春楳図かずおの方が上流階級みたいな場所でしたが、そこにたしかに菊坂ホテルはありました。ようやく手に入れた菊坂ホテルを抱えて汚い渋谷から早く去ろうと足早に歩いていると、驚いたことに、"夢二"の文字が目に飛び込んできました。菊坂ホテルが1冊だけあったそこは"夢二通り"という場所だったのです。あの繊細で素敵な絵を描く絵師はこんな場所とは無関係だと心では思いながら、足はさらなる"夢二"の文字を求めてました。そしてようやく見つけました。不法に自転車置き場にされた街の隅っこに"竹久夢二居住の跡"という石碑が立っていました。調べたところ、竹久夢二は渋谷の宇田川町に1921年から1925年の5年間住んでいたそうです。それはまさに最愛の女性・彦乃を失ってからの5年間でした。文学や芸術って思いがけない繋がりがあるから面白いと僕は思っています。今回経験した長い繋がりの果ては、僕がずっと嫌いだった街にありました。それが象徴するように、昔よりも複雑化した今の時代に文学や芸術の肩身は狭くなったと思います。夢二が生きた時代よりも僕たちはまっすぐ生きづらくなったと思います。ただ僕には生きた証を遺したいという生まれつきの野望があります。そのために東京に来ました。自分には何があるのか未だに分かっていませんが、今回頂いた賞を僕の生涯の1ページ目にしようとこれから先まだまだ精進していきたいと思います。僕が内山先生の携わる最後の文学大賞者とのことで、どうしてもこの経験をお世話になった内山先生に伝えたいと思い、思いの丈を長々と綴ってみることにしました。