2023-09-24

文学を好きになってはじめての秋。

それは痛みとともにやってくる。

ついこの間までバカになっている日本の夏に感じ

ていたうっとうしさが遥か昔に感じられてしま

う。

そんな不思議な気持ち。

どこかものさびしくて、静かだ。

別に昨日と変わらず虫は鳴いているし、車も通っ

ているから、デシベルとかそういう問題じゃない

ところでの静かさを今日感じた。

そもそもの話だが、ずっと前から春夏秋冬の中で

は秋がいちばん良いと思っていた。

なんで好きになったのかはよく分からないが、

花粉症も蚊に刺されることもウイルスに感染する

ことも無い、無難な季節である秋が好きだといつ

からか思うことにしていた。

それがどうやら違うらしい。

 

大学に入ってから、映画に人生の意味を教わった

ことで、"滑稽"という動脈と、"哀愁"という静脈を

流れる血液が、情熱の炎を燃やしながら、僕の心

臓を動かしている。

物心ついた頃から今まで、ずっとこの季節特有の

正体の分からない胸の痛みが気になっていた。

ちょっとの間だけ僕を刺激していつしか消えてい

く痛み。

その得体の知れなさにモヤモヤしていた。

そこに映画が教えてくれた"哀愁"という概念がぴ

ったり当てはまった。

僕は強がれる人間なのに、秋はいつも"哀愁"のマ

ジックで、僕を弱い人間にしてしまう。

そんな"滑稽"な自分に嫌気がさして、でも胸の痛

みは強がっていても治らないから、正直になって

みる訳だ。

するととある真実が、まるで風に運ばれてやって

くる紅葉のように、心の澱みに落ちて波紋を広げ

る。

 

僕にとって人生の大切な瞬間を与える季節。

それは必ず秋だった。

 

やんちゃだった小学2年生の秋、僕は寸劇の主役

をした。そこにいる誰もが僕に注目する心地良さ

を、あのときはまだ抽象的だったが、確かに感じ

ていた。

あの頃、多くの人に見られる緊張感が大好きで、

いつもよりずっと暗い講堂や、ふだんはサッカー

して遊ぶようなクラスメイトの緊張に火照った顔

にワクワクを覚えながら、世界の中心に立ったよ

うな感覚を味わっていた。

 

中学2年生の秋、小学生の頃はまさか味わうこと

になるとは思いもしなかった不甲斐なさと、その

感情の救済を求めたはずなのに、報いてくれない

恋の難しさに痛みを知った。

今でこそ自分の頭で考えて解決出来るようなこと

でも、その頃の僕にとっては世界のどんな不条理

よりも不条理で、希望と不安でごった返すアンビ

バレントな感情の終わりを、部活帰りの自転車で

通る畦道で、綺麗な星空にただ祈るしかなかっ

た。

その星空は、何も無かった僕の人生を決定づける

ことになる『君の名は。』に繋がっていた。

公開から1年遅れだったが、僕にとっては不可欠

な出会いだった。

 

自分の存在意義を決定的にした中学3年の秋、僕

はクラス合唱の指揮者を担当した。"背負う"こと

の難しさに、寸劇の主役だった小学生の頃は一切

感じることのなかったプレッシャーに押し潰され

そうになりながら、そんな僕を支えてくれた人た

ちの温かさが、少し肌寒くなる季節には何よりも

幸せだった。前評判が酷かった僕の指揮が結果的

に優勝に導いたことは、今思えば当然の事かもし

れない。

 

高校2年の秋、2度目の恋をした。

中学の頃よりも自分の抱く感情の理由が分かるよ

うになってきて、だからこそ孤立し、周りに合わ

せることが嫌になるどころか、自分に合わせない

周りを嫌悪し、見下すようになっていった。

そうして自分に酔っていたとき、ある日廊下をす

れ違った女の子に一目惚れをした。

今思えばこれは天誅だった。

見かけでは仲良くしつつも、実際には見下してい

たクラスメイト達全員に自分の恋心を暴露し、そ

の子にアタックする自分でドラマを作ることに必

死だった。

未熟なまま大人ぶっていた僕は、なんとその子も

僕のことが気になっていたという衝撃の展開に浮

かれて、その後も自分が主人公のドラマを演出し

続けた。

やっぱりまだ喋りたいと自転車を引き返したり、

車道側を歩いたり、缶コーヒーを自販機で2本買

ったりした。

この頃、僕は人生で最も滑稽だった。

その子のバスを一緒に待っているとき、民家の垣

根を超えて金木犀の枝が垂れ下がっていた。

けれども、その金木犀は一切匂いがしなかった。

そこで感じた嫌な予感をどうして大切にできなか

ったのだろう。

結局修学旅行という大イベント中にその子に素っ

気なくされてからは、そんな訳ないという感情に

任せて何度も執拗にアタックした。今思えばその

子に呆れられてからが本当の恋だったように思

う。

今思えば、

結局、最初から叶わないものだった。

運命を感じた一目惚れも、

その子抱いた幻想への一目惚れ。

未熟さが生み出すまやかしに翻弄されていた。

未熟さに気付かない最大の未熟さで、無謀な挑戦

をしていた。

お互いにはじめましてから始まった関係だから、

内面をとにかく取り繕った。

だけど、いくら磨いたとしてもそれは内面じゃな

くて、外見の一部だった。

僕が恋をするのは、"叶わない"と分かったときだ

ということを皮肉にもその経験が教えてくれた。

 

東京に出てきて最初の大学1年の秋。

適応するのに必死で、今まで田舎で築いてきた18

年の思い出のすべてを捨ててまで、周りの新しい

環境に合わせようと頑張っていた。

コロナによって社会が変な方向に曲がっていき、

僕もそれに合わせて変な方向に曲がる。

マスクの状態で顔も分からないのに、僕はなんと

また一目惚れした。

ただこれは恋と言うには不完全すぎる、相手から

したらあまりにも理不尽な特攻だった。

受験期に映画に出会ったことで、僕はいつしか自

分自身を俯瞰で見る能力が養われていった。

この頃の僕はまだ自分が主人公のドラマに幻想を

抱いていたと思う。

文学に人生を見出す前の"過渡期"に、自分自身が

本当にそれでいいのかを確認するためにその女性

を利用したようなものだった。

結局その発端も、得体の知れない秋の悲しさ。

だけどその悲しさを全然理解できないほど、文学

に深く肩入れしてなかったようだ。

ただ、

この辺で自分自身を理解するようになった。

それを象徴する出来事として作詞をしてみた。

それが後に僕の人生に"文学"の道を与えてくれる

ことになる。

 

そして今宵。

文学賞を受賞して、文学と過干渉するようになっ

て最初の秋。それは人生で最も痛い秋だ。

今の僕は物心ついた頃と同じように、人に見られ

たいという情熱を燃やし続けている。

そんな僕は文学を自分の一部にして生きる日々を

送っている訳だ。

今まではイベントとか暦の上で何となく感じてき

たそれが、もっと肌感覚ではっきりと"秋"だと分

かった。

それだけ"考える"ようになったのかもしれない。

古くから秋の夜は静かだと言われるけど、

今宵人生ではじめてその感覚を味わった。

世田谷は東京でもかなりガヤガヤした場所だ。

昨日と同じように車も通っているし、虫も同じよ

うに鳴いている。それなのにどうして今宵はこん

なにも静かなのだろう。

そして、こんなに街並みが音に溢れているのに、

古くから変わらず秋が静かなのは変わっていない

のはどうしてなのだろう。

きっとデシベルとかじゃ解決できない何かがある

に違いない。

その謎を満たしてくれるのが文学である。

文学、旅、文学、旅。

その繰り返しと19年の経験の調合の結果、自分自

身の"ものさし"が完成した。

だから今、どうして静かなのかは分からないけ

ど、どうして悲しいのかはよく分かる。

分かってしまうから、これまでの秋のように悲し

い以外の感情で悲しいを埋められない。

だから、これまで経験したすべての秋へのノスタ

ジーが、今年の痛みの正体だ。

 

だけど。

出会いたい。と祈ることはできる。

これじゃ中学2年生のいちばん訳わかんない時期

と同じだ。でも、最悪だけどそれでいい。

秋はいつもそうやって僕を振りだしに戻す。

戻してくれるのだ。

 

秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。(織田作之助「秋の暈」)